usakdsteen

ゆうさくですてぃーん

デス・パレード [1]~[12](最終回) & デス・ビリヤード

面白係数 400

この作品の世界観の理屈が欲しいため最後まで見たが結局答えは得られず


会話中には世界中の1時間あたりの死人数について出てくるが
作中で登場する死人はどいつもこいつも日本人ばかりで外国人はどこいった?
もちろんそれは劇中で描かれてない場所で他の裁定者によって裁定を受けているのだろうて

アニメにしろドラマにしろ
描かれなければ作品世界の人間はは食事もトイレも睡眠もしないのかってそんなわけない
描写されないからってしてないことにはならないんだから

それと同じ理屈
我々が思う懸念は描かれてないだけなのだ



最初
「裁定者は人の感情を知ることはできない」ってのを
「裁定者は感情を持たない」と勝手に誤解してたが
最終回を見て「人ではない裁定者は人の感情を理解できない共感でkない」という意味だったのかと解釈した
つまり人間が魚の気持ちを理解も共感も出来ないのと同じように、人とは異なる存在である裁定者は人の気持ちを理解も共感もできない、そういう解釈
最終回まで「裁定者は感情を持たない」と勝手に勘違いしてため
どう見ても感情ある存在として言動する裁定者たちに疑問を禁じえなかった


もうひとつ気になっていたのが
裁定者は死を経験できないという
デキムとかノーナがとある時点から裁定者として活動してるわけだけど
裁定者が死なない=数が減らない のなら裁定者を増やしていく理由は何?
人の魂は虚無か転生らしいけど、転生以外で現世に魂が発生する仕組みがなければ現世の魂は減り続けるし
アニメの世界でなく現実の我々の世界では世界人口は増えつつあるようだけど
人口の増加に合わせて裁定者を増やすのなら、人口が激減したら?過剰な人数の裁定者でそのままなの?減らすとなれば裁定者は停止させられるわけだしそれは死なのでは?

まぁ実際のとこは「生と死」の定義によるものになるが
たとえばドラクエだってキャラが死んだり生き返ったりするが現実に何らかの生命体が死んだり生き返ったりしてるわけじゃない、
ゲーム内ではHPが0が死でありHP1以上が生と定義されているからの生死だが
そう定義されていようとゲームに興味ない人からはそれは生死とは思ってもらえないこともある。(現実世界では)誰も死んでないじゃん。と
「生と死」はあくまで観察者による定義によってされるのではないのか
ロボットでしかないAIBOが壊れたら葬式をするって人もいるらしい、彼らにとってはAIBOが死んだのだ。だが多くの他人にとっては死とは認識されないかもしれない。ただおもちゃが壊れて動かなくなっただけ。と

と、話が脱線しすぎて何が言いたかったのか全然まとまらない

生命は単細胞生物だろうと死(活動停止)を迎えたら二度と生(活動再開)は訪れない
デス・パレードの人間は肉体の活動停止が死と定義されているわけだ
肉体は死んでも魂は活動をしている、裁定を受けるため人形というボディを与えられるわけだが
虚無に落とされた場合は魂は苦しみつづけ、転生となったら新たな肉体を与えられるわけだ
魂には生も死も存在しないということになるのかな
人形とは生命活動をしている肉体ではない
被裁定者である人間の魂と同様に裁定者たちのボディも人形というわけだ
死の定義が生命活動をしている肉体の活動停止であるならば
生命活動をしていない人形の活動停止は死に当たらない
すなわち裁定者は死(生命活動の停止)を経験できない
この解釈なら理屈は通るな





こういったくだらん理屈をつけないと納得できない自分が悲しいわ
アニメなんて漫画なんてゲームなんてラノベなんてドラマなんて映画なんて小説なんて深く考えず気楽に楽しめよ俺・・・